BUMP OF CHICKEN の哲学を知りたくて…

BUMPの歌詞には哲学があるような…?そう思い、歌詞解釈を始めました。

ギルド

ギルド BUMP OF CHICKEN
 
歌詞は

「人間という仕事を与えられてどれくらいだ?」

衝撃的な歌詞で始まるギルド。
厳しく自分の人生の生き方を問われる一曲ですね。

傷つきたくない、汚れたくないから、自分の心を隠して、顔で笑って心で泣いて…
多分大多数の人が、こうやって生きているんだと思います。

それでいいのか?
誰のための人生か?
汚れたって、傷ついたって良いから自分自身で生きるべきだ。

自分に負けちゃダメなんだって、藤くんからの力強いメッセージを感じます。

皆さんは自分自身で生きることが出来ますか?

私は怖いです。
でも、少しずつ「人間という仕事をしている自分」より、本当の自分自身でいる割合を増やしていこうとチャレンジ中です。

自分自身で居れば居る程、周囲との軋轢も増して、疲れたり、悲しくなったり、自己嫌悪になったりします。

ギルドは、そんな時に
「それでいい。それがまともな日常だ。」
って勇気付けてくれる一曲です。


↓以下解釈です。

「人間」という仕事(職業、労働)を与えられてから、どれくらいだ?
毎日大変な思いをして仕事をしている(生きている)けど、それに相応しいだけの給料(充実感、愛、優しさ)をもらった気は少しもしない。

そんな事はいつの間にかの思い違い。
自分の人生が「仕事でないこと」は最初から解っていた。
でももう手遅れ。
自分の人生が、日常をただ生き延びるだけの「仕事」でしかなくなっていた。

心が悲しんじゃなくて、体が疲れただけだ。
「今日は仕事(人生を)お休みさせて下さい。」
誰に言うつもりだろう?

自分から奪われたのは何だ?
自分が奪い取ったのは何だ?

自分の人生を「仕事」として、心をなくしてただ機械的に繰り返していく中で、少しずつ忘れたんだろうか…?

汚れちゃったのはどっちだ?
心無くすことを覚えた自分か?
それとも、そうしなければ生きていけない世界の方か?

まぁ…でも、汚れちゃったのがどちらだったとしても、自分のその瞳はしっかりと開けて現実を見るべきなんだよ。

そうやって全てを受け止めることこそが、気が狂うほどのまともな日常なんだ。
(目を開けていない今の日常は、まともな日常ではない)


心が空っぽの、愛と優しさに飢えた抜け殻なのに、ただそこにじっとしていて、受け身で誰かの愛や優しさを待っているだけ。
「誰か愛してくれないか?」
自分からは何もしないで、心の中でそう思っているだけ。

自分を失くして「人間と言う仕事」に一生懸命向き合ってきたが、その仕事もクビになって(自分を失くしたまま生きていくことができなくなって)、どのぐらい経っただろう。
とりあえず一所懸命毎日を過ごして、努力をしたつもりでいただけだった。

やっと思い出したんだ。
自分が望んでいたいろんなことを。
そのキラキラと輝く憧れと眩しさを怖がらずに、きちんと向き合えるだろうか?

自分が望んだ自分でいる僕は、美しくもないし、優しくもない。
そんな「人間」でも生き続けていくことは許されるだろうか?

笑たくもないのに、その場しのぎで笑って…
鏡の前で一人で泣いて…

当たり前だろう。
そうやって自分をいつも隠してるから、誰にも気づかれないんだよ。
夜と朝の往復を、機械的に繰り返すだけの「人間という仕事」のまともな日常。

「誰かに愛されたい」と心の中で叫んで…
なのに愛されることに怯えて…
自分の心を全部隠して、逃げ込んだ檻。
その隙間から自分を引きずり出してやる。

傷ついてもそれを受け止めろ。
世界は全て自分のものだ。
美しくもなくて、優しくもなくて…
どんなに汚れていて、傷ついていても構わないから、そのままの姿で生きるべきなんだよ。
それも全て気が狂うほどのまともな日常。


自分ではない誰かから、仕事を与えられて、そしてその仕事もクビになって、どれくらいだ?

そして何のために生きているんだ?

誰かから与えられたんじゃない。
誰かにクビにされたんじゃない。

全て自分が望んだんだ。
全て自分が選んだんだ。

自分の人生は「仕事ではない」。
最初から解っていた。